• 坐禅とは

     

     

    坐禅は本当の自分を見つける道です。

    本当の自分とは? 

    今の自分は本当の自分ではないのかと思うかもしれません。

     

    その自分のありように迷い、疑問があるなら、それを解決する道が坐禅です。

     

    では本当の自分のありようとは、どんな様子なのかと言うと、それは生まれたての赤ん坊です。自分を知らない。何の持ち物もない。だから、自分に迷うということもなかった頃です。誰もがすでに通ってきた道です。

     

    人はもとから如来として生まれているのです。その上に、名前を持ち、さまざまな価値観、観念を積み上げて、それを自分だと思い込むのです。そして、その自分に迷う。観念上の架空のはなしですから、観念上納得できたとしても、本当の解決は着きません。

     

    坐禅に成り切って、積み上げた観念を一端くずしてみる。自分というものを忘れてみる。坐禅とはそういう修行です。

     

     

  • 坐禅をする

     

     

    できれば落ち着ける静かな部屋で坐ってください お尻の下に丸い座布(無ければ二つ折りにした座布団)を敷きます あぐらの左足を右のももの上に乗せて、両膝が下に着くようにしてからだを安定させます (両足を両ももの上に乗せれば、不動の姿勢となりますが、無理することはありません) 足の上に右手を置き、その上に左手を重ねて、親指同士を軽く着けます 腰から上をまっすぐにして、口は閉じ、目は閉じずに力を抜きます 最初に大きく息を吐いたら自然な呼吸を保ちます、坐禅とは、このままただ静かに息をしているだけです。

    坐禅会では、止静鐘が三つ鳴って始まり、開静鐘が一つ鳴って40分の坐禅が終わります 二坐続けて坐るときは、鐘が二つ鳴って経行(きんひん・歩く坐禅)となり、また坐禅して止静鐘が鳴ります 

     

     

  • 工夫

     

     

    坐禅中どうしていたら良いのか。

    初めて坐る人が思う素朴な疑問です。

     

    坐禅の基本は、生まれたての赤ん坊です。

     

    人は何も知らないで生まれてきます。

    もともと自分というものも知らなかったんです。

    自分を知らないから、自分に迷うということもなかったんです。

     

    無我が本当の自己のありようです。我があるから無くすのではありません。もともと無いから無我なのです。

     

    坐禅の工夫とは、無我のまま坐るということに尽きます。

     

    ここで云う我とは、自分を認めて、その自分について考え続けることです。これを止めるのです。

     

    身体の方は、生まれたときから宇宙と共に変化し続ける存在です。単純に生老病死と変化します。自分の考えで生まれて来るのでもなく、どうやっても年は取り、死にたくなくてもいつかは滅してしまいます。自分の身体なのに、自分の思い通りにはなりません。

     

    自分を認めて、自分の思い通りにしたいけれど、そうならないところに人は迷うのです。

     

    坐禅をして無念無想になろうとしても、そうならないのです。そうではなくて、考えを雑念だと思って、何とかしようとするのを止めるのです。

     

    意識を無くすのではありません。考えるという機能はそのままに、自分と認め、自分を中心に考え続けることを止めるんです。

     

    自分を認めることを止めると、雑念というものも消えてしまいます。見ている者も、聞いている者も消えてしまいます。その間のことは覚えていません。ふっと気が付くと、無我の様子を知るのです。

     

    畳の中に入っている、障子に自分が貼りついている、身体の中に雨が降っている、身体の中を風が吹いている・・・。

     

    ようやく坐禅が坐禅になる時節です。